坂本龍馬「暗殺犯人の黒幕」近江屋事件の真相を世界ふしぎ発見で公開【画像】

   

坂本龍馬 暗殺 犯人 (1)

2018年1月13日(土)放送、TBS系列「世界ふしぎ発見!」
21時00分~21時54分

「時代の寵児」
坂本龍馬は、幕府を倒す薩長同盟成立させるのに奔走した一人で、坂本龍馬がいなければいまの日本がなかったと言われる英雄。

しかし、教科書に書いてあることが、「事実の歴史」すべてではない。

江戸幕府末期に薩長同盟をなしとげた人物として、坂本龍馬は西郷隆盛、木戸孝允とともに授業で取り上げられ、調査を行うと多くの児童が「歴史上の好きな人物・尊敬する人物」にあげている。児童間の関心が高いことは明らかなのに、いまだになぜ暗殺されたのかは不明となっている。

一体、坂本龍馬はなぜ暗殺されなければいけなかったのか?

今夜の「世界ふしぎ発見!」で教科書では明かされていない2017年に発見された幕末の英雄、坂本龍馬直筆の手紙を初公開。この手紙には龍馬暗殺の真相が明記されている。

今回は、放送に先駆け、坂本龍馬の暗殺犯人についてまとめてみた。

■目次

坂本龍馬プロフィール

坂本龍馬の人気

坂本龍馬の功績

坂本龍馬の暗殺事件

坂本龍馬を暗殺した犯人の黒幕

坂本龍馬プロフィール

坂本龍馬 暗殺 犯人6

坂本 龍馬(さかもと りょうま)、

生年月日1836年1月3日(1867年12月10日31歳没没

土佐藩郷士。 諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。
他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。 土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。

薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。

参照wiki

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坂本龍馬の人気

教科書には、「坂本龍馬らが暗躍して、薩長同盟、大政奉還が成った」と、2~3行ぐらいの記述しかないが、坂本龍馬が知名度を広めるきっかけとなったのが、司馬遼太郎の小説「龍馬がゆく」。

龍馬関係の資料は、司馬遼太郎がトラック一杯分ぐらいかき集めたということなので、歴史専門家のところには「龍馬のめぼしい資料がない」という逸話が残っている。この「龍馬がゆく」での龍馬は、子供の頃は馬鹿の悪ガキで、身分も低く、若い頃は剣道ばかり。何も実績がないし、親のコネもなく身分も低い龍馬が、規則や習慣を排除し、いろんなものから独立して活躍したところが人気を集めた。

「竜馬がゆく」を読んだ事がある人は、ほんの些細な日常シーンに少しでも自分と共有する部分があれば、読者はもう「俺も竜馬になれるかもしれん!」とか思わせるくらいの普遍性の高い人物像に描かれており、それは司馬遼太郎のヒット作家としての優れた才能があってこそ。


もちろん根拠がなく書いたデタラメというわけではないので、歴史上に存在した坂本龍馬の魅力をうまく伝えることが出来た。

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坂本龍馬の功績

坂本龍馬 暗殺 犯人5


日本を異国の手から守ったと言う意味では、坂本龍馬と徳川慶喜が第1の功労者である。

坂本龍馬は土佐藩の尊王攘夷の志士。
幕末に黒船が来航して、日本は植民地の危機に立たされる。日本は江戸時代の見せかけの平和と鎖国で武器や産業が整ってなく、外国に脅され不利な条約を結ばされる。


「このままじゃ日本は異国の植民地になってしまう」

そこで尊王攘夷派の坂本龍馬は、外国の脅しに負けないよう富国強兵体制の必要性を感じた。坂本龍馬は、河田小龍・勝海舟・松平春嶽などと出会った事で、諸外国の事やもちろん清国の事の内情をしり、「黒船が四隻来ただけで、右往左往するようでは、清国の二の舞になるかもしれない」と危惧していた。

そこで、龍馬は勝の意見を入れ「海軍だ!」と奮い立つ。
勝は、当時では数少ない、日本国という括りを知っていた人。(咸臨丸でアメリカへ行っている)勝の計画した「神戸海軍操練所」と「勝塾」の準備のため龍馬は奔走し、その間に世の中は大きく動いていく。

龍馬は、力を失った幕府を倒して、天皇朝廷を中心とした統一政権を作り、外交安全保障では貿易で海軍や武器を整え様と考えた。


しかし、坂本龍馬の土佐藩は、色々な事情あって先頭に立つのが困難だった。

幕府以外でもっとも力があった薩摩藩と長州藩も幕府に対抗する目的は同じだが、それぞれの立場と考えがあり、互いに喧嘩してしまう。結局、坂本龍馬は土佐藩から抜け出て浪人となって、幕府を倒す為に喧嘩していた薩摩藩と長州藩の間を調停して「薩長同盟」を結び、幕府を倒した。


この「薩長同盟」これを結ばせた功労は坂本龍馬が第1級。

大政奉還を決断した徳川慶喜も、昭和天皇の如く彼の決断が無ければ、日本は二つに分かれて戦が長く続き、西洋諸国に食われていただろう。


要するに坂本龍馬は、「日本の危機を救った英雄」として、とても人気の高い歴史上の人物になっている。

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坂本龍馬の暗殺事件

坂本龍馬 暗殺 犯人1

1867年12月10日に起きた事件「近江屋事件(おうみやじけん)」
この事件は、坂本龍馬と中岡慎太郎が、京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺され、いまだに多くの謎が残っている。

坂本龍馬 暗殺 犯人2

この事件の前、慶応三年十月十八日(大政奉還三日後)推定、坂本龍馬の望月清平宛てた書簡があるが、暗殺犯人と思われる記述がある。

然ニ小弟宿の事、色々たずね候得ども何分無レ之候所、昨夜藩邸(薩摩)吉井幸輔より、こと伝(づたへ)在レ之候ニ、未(いまだ)屋鋪(土佐屋敷)ニ入事あたハざるよし。
四條ポント町(四条河原町二筋束近江屋)位ニ居てハ、用心あしく候。其故ハ此三十日計(ばかり)後(あ)ト(三十日ばかりまえ)、幕吏ら龍馬の京ニ入りしと謬伝(びゆうでん)して、邸江(土佐藩邸へ)もたずね来りし。されバ二本松薩邸(薩摩藩邸)ニ早々入候よふとの事なり。
小弟思ふニ、御国表の不都合の上、又、小弟さへ屋鋪(土佐屋敷)ニハ入ルあたハず。又、二本松(薩摩藩)邸ニ身をひそめ候ハ、実ニいやミで候得バ、萬一の時も存レ之候時ハ、主従共ニ此所ニ一戦の上、屋鋪(土佐藩邸)ニ引取申べしと決心仕居申候。
又、思ふニ、大兄ハ昨日も小弟宿の事、御聞合被レ下(くだされ)候彼御屋鋪の辺の寺、松山(松山藩)下陳(陣)を、樋口真吉ニ周旋致させ候よふ御セ(世)話被レ下候得バ、実ニ大幸の事ニ候。上件ハ唯、大兄計(ばかり)ニ内々申上候事なれバ、余の論を以て、樋口真吉及其他の吏吏ニも御御申聞被レ成(なされ)候時ハ、猶(なお)幸の事ニ候。
望月清平様

参照wiki


まず、書簡なかほどに認められている「御国表の不都合」の意味。
これは、龍馬が脱藩し、その呼び戻しを拒否したこと。

龍馬は慶応三年二月に、中岡慎太郎とともに「脱藩の罪を赦されている」のだけれども、「脱藩および呼び戻しを拒否したこと」に対して憚りがあって「屋鋪ニハ入ルあたハず」、つまり、河原町土佐藩邸へは入れないと言っている。


なので、行動の自由を確保したいがために近江屋に潜伏していたわけでは全くない。

そして、冒頭に「然ニ小弟宿の事、色々たずね候得ども何分無レ之候所云々」と認められていることからわかるように、「身の安全が確保できる」宿所を探すも、適当なところが見つからない。そこへ、このまま町屋などにいては危ないから、「二本松の薩摩藩邸へ来い」と、吉井幸輔から言伝があった。

しかし、薩摩藩邸に入るのは「土佐藩への厭味(不快にさせる)にもなる」ので、刺客に襲われた場合は従者の藤吉とともに此処(近江屋)で一戦のうえ土佐藩邸に入ろうと決心している。

大兄(望月)は、昨日も小弟の宿所のことを心配し、方々に聴き合わせてくれているが、思うに土佐藩邸近辺の寺や松山藩下陣を樋口真吉に周旋させるよう世話をしてくれれば、大幸。なお、これは大兄にだけ内々に申し伝えることなので、自分の名は伏せ、他の話にことよせて樋口および藩士の面々に申し聞かせててくれれば猶良い。

と、こう書かれている。
もっとも、龍馬の願いは樋口へは伝わらず、慶応三年十一月十五日夜、近江屋においてたまたま訪れていた中岡とともに守旧派(徳川)の京都見廻組によって斬られ、三十三年の生涯に幕を閉じた。

暗殺の実行犯とされた京都見廻組は、大政奉還により回避された薩長芸との武力衝突を土佐藩との間に再燃させないよう、龍馬殺害を手柄として大っぴらに吹聴しなかったという可能性が極めて高いという説が有力となっている。

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坂本龍馬を暗殺した犯人の黒幕

坂本龍馬 暗殺 犯人4

当時、京都には新撰組のほかに、もう一つ幕府に属する警察組織があった。
それが京都「見廻り組」である。明治2年戊辰戦争敗北の旧幕府軍のなかから「龍馬暗殺の犯人」と称する人物が現れた。それが「見回り組」隊士・今井信郎。

坂本龍馬 暗殺 犯人 (2)

当時の明治政府による取調べでは、見廻組の佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人が暗殺に関わったと明治3年(1870)にあきらかになっている(兵部省・刑部省口書)。

誤解している人も多いが、京都見廻組の今井信郎は自分から犯人だと名乗り出たのではなく、新選組の大石鍬次郎が「暗殺は見廻組の犯行だ」と供述したせいで、取り調べを受けることになった。

今井は明治政府の取り調べに対して、隊長・佐々木唯三郎はじめ、見廻り組7人で襲撃したと供述。さらに明治44年、同じ元見回り組隊士・渡辺篤も暗殺を告白。遺書の中に龍馬に斬りつけた様子を詳しく書き残している。

この2人の証言は刺客の人数、襲撃のメンバーの名前など様々に食い違っているため、多少の疑問が残されているが、供述は具体的であるため、現時点で有力な説となっている。

では、なぜ坂本龍馬を暗殺したのか?

動機の点では、坂本龍馬は慶応2年1月にも、薩長の間を跳びまわり「何やら企てている不逞浪士」ということで、伏見奉行所の捕り手百数十人に襲撃されており、このとき逃げる際に数人をピストルで殺傷している。


要するに坂本龍馬は、薩摩と長州の間を周旋し、また大政奉還にも尽力した政治犯であり、かつ幕府の役人を殺傷した「お尋ね者」だった。

幕府のどこから指示が出たのか、または佐々木の独断だったのかはいろんな学者が議論しているが、おそらくは佐々木唯三郎の腹いせだったのではないか?と推察されている。いずれにしろ「見廻組与頭・佐々木唯三郎が部下6人を率いて坂本龍馬を暗殺した」という説は、研究者レベルでは否定する人のいない「定説」となっていて、学術的にはこの説で決着はついている。

ところが、世の中には(主に作家など)、暗殺犯人は「薩摩だ」「長州だ」、「いや土佐だ」、果ては「フリーメイソンだ」などと都市伝説的なエピソードも含めた説が出回っている。しかし、これらの唱える俗説には、根拠となる確かな史料などがない。

今夜の放送では、新たに発見された坂本龍馬が直筆したという手紙を公開。
その中に暗殺犯人とされたこの定説を覆すだけの黒幕に迫る。

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