佐々木友次「永遠の0モデルの戦後」9回出撃し9回生還した男の遺書をアンビリバボーで公開【画像】

   

佐々木友次「永遠の0モデルの戦後 (5)

2019年8月15日(木) 放送、フジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」
19時57分~21時00分

8月15日、終戦の日について。

昭和天皇の終戦を知らせる玉音放送が流れた時、殆どの国民が内容を理解してなくて、その後のNHKのアナウンサーの解説でやっと日本が負けたと理解した。当時の皇室の言葉使いは独特で、ほとんどの人には何を言っているか理解できなかったようだ。

まず、神だと教わり、崇めてきた天皇陛下の肉声を初めて聞いたこと、それに辛く厳しい戦争が続きいよいよ本土にまで敵の攻撃が迫ってきて、家族も知り合いもどんどん兵隊に取られ大本営発表のように連戦連勝が本当なのか誰もが疑っていたこと、そういった社会のなかで感受性の高いひとが玉音放送を聞いて号泣し、それが回りに広がっていったという。

映画やドラマではみんなが地面に伏して泣いているシーンが描かれているが、あれは演出であり「このタイミングで生まれてはじめて天皇陛下がラジオにでることはただ事ではない(もしや戦争は負けたのでは?)」と察して落ち込んでたったまま項垂れていたのが真相のようだ。


このように学校では教えてくれない事実、正しい近現代史を若者に理解させる必要はある。

今回は、アンビリバボーで終戦の日の放送で、小説「永遠の0」のモデルにもなった特攻隊・特攻で9回出撃し9回生還した男・佐々木友次について特集されるので、わかりやすくまとめてみた。

■目次

佐々木友次とは

佐々木友次は特攻隊

特攻隊は志願ではない?

佐々木友次は特攻隊で9回出撃し9回生還した男

佐々木友次とは

佐々木友次「永遠の0モデルの戦後 (2)

1944年、飛行機で空を飛ぶことが大好きだった当時21歳の佐々木友次は、陸軍・万朶(ばんだ)隊の一員に任命された。

後に知らされた万朶隊の任務は、航空機で敵艦に体当たりし沈めるというもの。いわゆる、特攻隊だった。しかし、佐々木は司令官の命令に背き、体当たりすることなく生還した。当時、軍の命令に背くことは死罪に相当する行為。司令官は佐々木の行動に大激怒し「次こそは体当たりをしてこい」と厳命。

それにも関わらず、佐々木は命令に背き続け、生還し続けた! 21歳という若さで軍隊という巨大組織に立ち向かい、自分の信念を貫いた佐々木。彼はなぜ生還し続けることを選択したのか?その陰には父と、尊敬する上官の存在が!9回出撃し、9回全て生還した男のアンビリバボーな人生に迫る!

公式サイト

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佐々木友次は特攻隊

佐々木友次「永遠の0モデルの戦後 (4)

佐々木友次が所属していた万朶隊(ばんだたい。萬朶隊)は、日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊。1944年(昭和19年)10月21日、鉾田教導飛行師団で編成された。装備機種は九九式双発軽爆撃機。

日本陸軍では、1944年前半頃から航空機による艦船への体当り攻撃を検討していた。海軍機と異なって対艦攻撃を本来の任務としてこなかった陸軍航空隊では、艦船攻撃用の新戦術を必要としており、跳飛爆撃と並んで体当りが検討されたのである。

編成された特別攻撃隊は第4航空軍の指揮下に入り、10月29日にルソン島バタンガス州リパへ進出し、現地で「万朶隊」と命名された。万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味である。多数の戦果を報じたが、事実は不明。

隊員の大部分は戦死したが、佐々木友次伍長は機体故障での途中帰投や通常爆撃による攻撃などを9回以上行い続けるも、かろうじて唯一生存した。佐々木はその後のミンドロ島方面への出撃でも生還を果たし、ルソン島で生きて終戦を迎え、1946年に日本に帰国した。

参照wiki

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特攻隊は志願ではない?

佐々木友次「永遠の0モデルの戦後 (6)

そもそも当時の軍隊そのものが理不尽だから、特攻隊だけを理不尽には思わないが、日本軍は何の効果があるかを分からないまま突撃を命じられ、死んだ兵士は歴史上を見ても数多い。

とくに特攻隊は戦況が圧倒的不利になった状態で、現場で戦艦を幾つ沈めようと戦局に変わりないののが目に見えてるのにやらされた点で無意味であり、やらされた特攻隊は犬死にさせられたとしか思えない。

特攻隊に関しては、「神風(シンプウ)特別攻撃隊」が有名だが、海軍の特別攻撃隊を総じて、そう呼んでいる。陸軍は、「神風」とは呼ばず、万朶隊、富嶽隊、振武隊等、それぞれ名称を使っている。

wikiでは、猪口参謀は郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風特別攻撃隊」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めたとなっている。

いわゆる、「神風特攻隊」が現れたのは、「神」、「精神」そういった理由でつけられた。
佐々木友次のような万朶隊も特攻隊と呼ばれた理由は、特攻隊の攻撃に「アメリカは恐ろしくなって、戦争を止めようとするのでは?」という、考えもあったのだろう。

まず原則として特攻は強制ではなく、志願制になっている。
もちろん半ば強制的に特攻をさせられた兵士もいたかもしれないけど、特攻隊または航空隊に入隊できたのは職業軍人か、徴兵されて訓練を受けた者だけ。

当時の朝鮮籍の日本臣民(国民)、つまり今の韓国人や北朝鮮人は戦争末期まで徴兵の義務を負っていなかったから、特攻隊や航空隊に入隊することはできなかった。出来てもそれは自らの志願によって職業軍人になった朝鮮人だけ。しかし軍人になれた朝鮮人はわずか。それは軍の応募に対して志願する朝鮮人希望者が多く、入隊合格の倍率が高かったから。当時の朝鮮人男性にとって帝国軍人になることは憧れだったのだろう。


神風特攻隊は必ず死ぬと分かって飛行機に乗るわけだから士気が高い者でなければ、遥か彼方の海原を越えて敵艦へ突入することはできない。
ただでさえ物不足で貴重な航空機を与えるわけだから、士気が低く、逃亡をする恐れがあり、訓練を受けてないような者を乗せることはあり得ない。


何が言いたいのか?とまとめると、神風特攻隊は選ばれたエリートだけ。

しかし、「佐々木友次は神風特攻隊とは違い、当初から特攻隊を志願したわけではなく、軍の勝手な構想から特攻隊にさせられた」ことがわかる。

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佐々木友次は特攻隊で9回出撃し9回生還した男

佐々木友次「永遠の0モデルの戦後 (3)

「9回帰還した特攻兵」は陸軍万朶隊の佐々木友次伍長は、なぜ特攻しなかったのか?と疑問に思うだろう。

9回出撃し9回生還した男・佐々木友次は正面からの特攻拒否ではなく、特攻出撃命令はその都度受けて出撃し、そのたびに戻ってくる、と言う非常に変則的な特攻拒否をした。上官としても、敵艦を発見出来ず、天候不良、機体不良などで帰ってこられると命令違反で罰することもできなかった。そしてそのうちに戦争が終わってしまった。

管理人が調べた結果、特攻命令を受けて文字通り「拒否」して特攻出撃しなかったのは、海軍の岩本徹三中尉だけ。岩本中尉は海兵団から叩き上げて士官まで昇進した軍人だが、文字通りの「撃墜王」だったので、上官も特攻を強制が出来なかったようだ。

また、wikiには「予科練出身の若い搭乗員が特攻命令を拒否をしている」とあった。
これは上官が「なぜ拒否するか!」と注意したら、「私は一等飛行兵曹であります。特攻戦死すると二階級特進しますが、近いうちに定期昇進で上等兵曹に昇進します。それで特攻戦死したら二階級特進で少尉。士官としての軍人恩給を遺族が貰えます。それが私に出来る唯一の親孝行であります」と反論。上官はそれを許し、この搭乗員は昇進後に特攻戦死。二階級特進で海軍少尉になった。

美濃部正海軍少佐の芙蓉部隊も有名で、これは「特攻拒否」と言うより美濃部隊長が「自分の隊は訓練で特攻よりいい戦果を出す自信がある」と、実績も積んで上部に特攻編成に組み込まない様に説得したケース。部隊としては唯一の例。

陸軍航空特攻の大御所、第六航空軍司令官の菅原道大中将は「諸君は生きながら既に神である。諸君だけを行かせはしない。最後の一機で本職も必ずあとを追う」と行って特攻隊をどんどん送り出し、機体不良や敵発見出来ずなどで戻ってきた搭乗員をののしった。そして終戦。「最後の一機で必ず」どころか、敗戦の責任を取って自決をすすめる参謀に「死ぬだけが責任を取ることではない」と逃げまわり、結局95歳で極楽往生。

菅原の参謀だった倉澤清忠少佐は、オンボロ機をあてがわれた特攻隊員がエンジン不調などで帰ってくると、「卑怯者!死ぬのが怖いのか」と殴る、蹴るの暴行を加え、振武寮という宿舎に閉じ込めて毎日ネチネチとお説教。机の上にブーツをはいた足をのせてふんぞり返り、「お前たちの大和魂はどこに付いておる。腰抜けめ」となじり、余りの悔しさに自〇した隊員もいたそうだ。

佐々木友次がどうして特攻で9回出撃し9回生還できたのか?は、けして臆病風に吹かれたからではない。海軍でも特攻出撃して色々の理由で戻って来た例は結構あり、再出撃、再々出撃で特攻戦死などあり、あの神風特攻隊敷島隊も四回目の出撃で特攻を果たしている。

正面切った「特攻拒否」は現実問題としてゼロと言っていいので、「処罰」の例はわかっていない。国の為、と自分に言いきかせて黙々と特攻に出て行った特攻隊の中では、佐々木友次のように「生き延びたい」と考えていた人もいたということ。

佐々木友次を扱った書籍では、「特攻隊は正規の部隊ではない」と言ったそうだ。特攻で戦死したある士官は「せめてまともな飛行機で行きたかった」と遺書に書いているので、当時の状況では「無謀」だったことがわかる。

だが、生還した佐々木友次は、日本で余生を過ごしたが、「特攻隊の生き残りが復讐にくる」、と恐れてピストルを持ち歩き、寝る時は枕元に日本刀を置いて寝たそうだ。

特攻の場合は「軍神」なんて強制して崇めていたので、生き残った軍人は、戦後の自由社会で死んだ特攻隊の遺族までに石を投げられたり、階級が低かった者は就職が出来なかったり苦労したという。


では、特攻したものが幸せな戦後を送ったか?というとそうではない。

特攻第一号と云われた関行雄の母親なんて「軍神の母」なんていわれ、村で鳥居まで作られたのが、戦後作られたマスコミのアンチ日本軍のイメージで、鳥居を壊され、収入もなく、どこにも雇ってもらえず、草もちの行商をして最後は野垂れ死をしている。

ほかの生き残った元特攻隊員は、逝きそびれた負い目から沈黙。
家族の男を奪われた家は、生還した兵がいる家をよく思わなかったことは事実。それが軋轢のもととなって村や集落が崩壊した例は数えられないくらいある。佐々木友次のように、生きてる特攻隊の言うことは国がつくった歴史より正しい。

当時の日本政府は、降伏せざるをえないという意見と、天皇制維持の保証がなければ降伏すべきではないという意見が対立して降伏が遅れた事実はある。ただし、連合国に対して日本が降伏を申し出たのはただ一回。昭和20年8月14日の午後10時ころ。それで戦争が終わった。しかし既に戦争が終わる事を知りながら、惰性の様に8月15日にも特攻を出撃させた部隊もあったというので、本当に無茶苦茶だった。

国は都合の悪いことは「隠蔽」して、間違った歴史を子供達に教えてるので、今の平和ボケがある。

まあボケてもいいから平和がいいのか、少々厳しくてもビシッとした方がいいのか、難しいところだが、戦って死ぬことしか教えられなかった若者たち、平和を知らない若者たちを粘ったところで勝つ見込みのない戦争に、天皇制の家系を守るために、何人の人や家族が犠牲になったのか?は忘れてはいけない。

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